夜風のささやき

言霊 謎 狂気 廃墟 廃人

「 家族 」「 記憶 」「時 」

年が明けて5日になった。
正月はたいてい1人で過ごす。
親兄弟、女房子供がいないので仕方がない。
もっと若い頃は何かと世話を焼いてくれる女性や同じ境遇の友人もいたが皆所帯を持ったりして今は一緒に過ごすことはない。
今年も年末年始は1人で過ごす。別に孤独でさみしいとは思ったことはない。1人で勝手なことをやり、好きなだけ酒を飲み好きなことをやり好きなだけ寝る。面倒は掃除洗濯くらいか。
たまに人に呼ばれれば行って仲間の中に入る。これはこれで楽しく別に我儘な偏屈人を装うつもりは無い。
結局、幼少のころから1人で過ごすことに慣れ切っている、と言うかそれがデフォルト、自然になっている。かえっていつまでも人が一緒にいたりすると苦痛になる。ましてや誰かと一緒に住むなんてことは恐ろしくて出来ない。結婚出来なかったしなかった1番の理由だとおもう。
しかし、おかしな事に文学、映画、ドラマなどはなぜかホームドラマが好きである。「渡る世間に、、」タイプのコメディタッチではなくシリアスなドラマが好きだ。
「ゴッドファーザー」「チボー家の人々」「楡家の人びと」
など家族の物語が好きである。
考えてみると、家族の物語は人生の全てがある。出生から死まで様々な年代が絡まり進んで行く。
中でも小説では「 楡家の人びと」、映画では「 ゴッドファーザ  」は数度鑑賞した。
内容はここでは解説しない。

問題は家庭に恵まれない僕がなぜ家族の物語を好むのか?
自分の境遇との裏返しだとは単純には言い切れない。もちろんそう言う要素も少しはあるだろう。
おそらく家族の物語は「時 」が描かれていることが僕の琴線に触れるのだろう。
つまり、横線に家族たち。縦線に「時 」があり。それがユックリと「時 」に沿って動いて行く。
その中で人びと は時代に翻弄され笑い、泣き、幸福、悲劇を味わう。
しかし、過去の幸福な思い出も悲しい思い出も何だったのだろう?本当にあったのか?自分の錯覚では無かったのか?人は過去の思い出を疑うことがある。
人は「 同じ時間 」「同じ空間  」を持った他者を親愛の情を感じる。学校の同窓会などもそうだから成立している。
実は家族はその原理の最も足るものだ。
僕は大林宣彦監督の作品も好んで観る。彼の作品を数本観れば解るがほとんどが「 過去の修復 」である。
ストーリーはたいてい、一つの過去が断片的に複数の人に記憶されている。ところがそれぞれ記憶が違っている。そこに何らかの作用が働き過去の真実が浮き彫りになって行く、、。
こんなことが彼の映画の根幹にある。

正月からややこしいこと書いたが要は僕には家族がいないから、おそらく自分の頭の中以外は時も曖昧になっていて過去はかなりぼやけているだろうということを正月感じている。

北杜夫 「 楡家の人びと 」
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北杜夫は自分の祖父が興した精神病院を
モデルに「 楡家の人びと 」を書いた。
歌人の斎藤茂吉は彼の父。斎藤茂太は兄。北杜夫ともども皆精神科医である。
斉藤家集合写真
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