夜風のささやき

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秋の旅 長野安曇野編 上

秋の旅 長野安曇野編 上

11月10日
安曇野には4回目である。
高校の先輩と後輩が夫婦になり、住んでいるからだ。
この季節に訪れるのは初めてだ。いつもは初夏から真夏にかけてである。この時期紅葉は終わっている。
松本駅には先輩の旦那さんに車で迎えに来て頂いた。
ここから車で20分ほどで安曇野の御宅に着く。
御宅の敷地は広く、二棟有り母屋には夫婦と子供たち(と言ってもとっくに成人していて1番上がお嬢さん、息子さん二人の三人で次男さんは自衛隊のイージス艦に乗ってる)。
別棟には84歳になるお父様が暮らしている。僕の父と同じ世代である。
ここで夕食をご馳走になり穂高駅の近くにあるホテルまで送って頂いた。

11月11日
さて次の日である。ホテルを早く出て近くにある穂高神社に参拝する。
僕は実は神社マニアである。旅行に行くと必ず有名な神社 に詣でる。その話すると長くなるので省くが要は僕の専門は日本神統譜であり神話と神社から歴史時代と結びつけることを研究している。
穂高神社の神域はかなり広く、半分は禁足地の鬱蒼とした森林である。禁足地には歴代宮司の墓があり勝手に入ると祟りがあるそうだ。
穂高神社の成り立ちを簡単にいうと、地元神の穂高神の他、英雄とされる安曇乃比羅夫を祀ってある。
興味ない方は読み飛ばしてください。
なぜ、海神族である安曇氏の神社が山の中にあり、陸上で船をぶつける祭りをやるのか?安曇氏の分布は北九州あたりを始め全国各地に分布しているが、安曇とはっきり銘打った土地はここくらいしか無い。
しかも妙なのは開祖は海神の綿津見神であるのになぜ盆地のようなこの地に安曇氏が根付いたのか。
一つのヒントがある。
地元に八面大王の伝説がある。
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むかし、むかし
あづみの里、有明山のふもとに、八面大王と呼ばれる、それは強いお首領(かしら)がいたそうな。身の丈は6尺(2m近く)濃いひげづらで、一見おそろしげな面がまえだったそうな。
大王は、黒い有明山を背にして立っていた。昼間の戦のどよめきが、うそのように静まり、木々の芽吹きの若い生気が大王の胸をしめつける。---生きている、おれは今日も生きた。ともかく、あの激しい戦いをよくもちこたえた。かがり火が一つだけ、赤い炎をゆらめかせ、広場にうずくまる男たちを照らしていた。部下の男たちは火をかこんで戦にくたびれきった身体を休めていた。---明日は早朝にも、又討って来るだろう。
大王は暗い野の彼方にひそむ敵を思い、しばしば射るようなまなざしを闇に向けた。「大王さま、少しおねむり下さりませ」部下の一人が、火のそばから気づかわしげに呼びかけた。「いい宵じゃ、静かじゃ」火の方に向きなおると、大王は立ったまま目をとじた。
---戦がなければ、こんな春の宵、皆して酒盛りをし、花を愛で、唄ったりしたことだろうに。妻の紅葉はどうしているだろう。息子の真国をつれて、潮沢の谷へ無事逃げられたろうか。こんな小さな山里の片隅の村まで、何故ミカドの軍はこうも攻めたてるのだろう。ここ数年エミシ討伐のためといい、布を出せ、防人を出せ、武具を、馬をと矢つぎ早の朝廷からの貢物のとくそくは、村を貧乏のどん底におとしいれた。この冬にも、暮しが立たず、村を逃げ出したものが六戸もある。エミシを討つために、陸奥の戦いにかりだされ、一家の柱の働き手を失った者たちもいる。あづみの中でも、前科の里では、たくさんの麻布を献上したということだった。だが大王はこれ以上、村人の疲へいを見すごせなかった。
---ミカドに支配されたくない。だれからも支配されず、村人だけで力を合わせて暮らしていきたい。ただ、そう思っているだけなのに---。
「大王さま、大王さま」、大王はハッとした。だれか呼んでいる。きっとして、又闇の中を見つめた。するとかすかに闇が動いた。ミネバリの木のかげに、誰かがいる。大王は用心しながら近寄った。「だれじゃ、そこにいるのは」「薬師の弥左衛門でございます」弥左衛門はうずくまったまま、大王を見上げた。「どうしたのじゃ、いまごろ」「実は嫁の秋野がまいりまして、息子の弥助が田村麻呂に難題をふきかけられているそうにございます」弥左衛門は、5年前自分の村に大和の軍がやってきた時、薬草とりに有明山に入っていたがそのまま家に帰らず、大王のもとで働いていた。秋野は去年の春弥助のところへ来たばかりの、うら若い娘であった。大王が見ると、なるほど弥左衛門のかげにかくれるように、秋野は小さくうずくまってあえいでいる。よほど急いでのぼって来たにちがいない。
「どうしたのじゃ」「はい、それが・・・・」秋野は、悲しみにふるえる声でそれだけ言うと、口をつぐんだ。弥左衛門がその言葉をついだ。「それがでございます。わしらの矢村は弓矢の産地で、今までも梓弓じゃ矢じゃと、どれだけ大和に貢上させられたことか。それが東陸奥と戦いをすすめるにつれ、ますますひどくなりました。そして今度、息子の弥助に何と三十三斑もある、ヤマドリの尾羽で矢を作れ、こう申したそうにございます」「なに三十三斑と?」いぶかしがりながら、大王は秋野に問いかけた。「まこと、三十三斑と申すのか」秋野はようやく落着いた。「はい、さようでござります。大王さま」「ふむ、三十三斑あるヤマドリの尾羽か。とすればよほど長い矢にするつもりじゃ。ふつうヤマドリは七斑から、長くて十三斑のもの。秋野、真鳥(ハヤブサ)のまちがいではないか。斑でかぞえる矢は、真鳥だけよの、弥左衛門」「さようでございます。しかし、たしかにヤマドリだそうで、そんな長い尾羽は、真鳥にはございません。」「それで、見つからぬのか」「はい」秋野は涙ぐんだ。「これを作って差し出さねば、弥助は陸奥の戦いにかり出されるそうにございます」「ひどいことじゃ。まだ夫婦になって一年もたたぬというものを」大王は腕を組んで、思案の様子だった。しばらくは夜のしじまがかえって来た。右下の谷間の方から、かすかな川音が聞こえた。「あすまで待て。必ずヤマドリを見つけてやる。さ、火のそばへ寄って休むがいい。弥左衛門、秋野を休ませてやれ」大王のたしかな約束に一安どして、秋野と弥左衛門は、そっとかがり火の近くへ寄った。
翌日も激しい攻防戦があり、何人かの大王の部下がたおされ、春の有明山を血で染めた。夕方戦いがしずまると、大王は岩かげにいた秋野と弥左衛門を呼び出した。「昨日の約束じゃ、ほれ、」「大王さま」二人はおどろいて大王の足元を見た。いつの間にうったのか、そこには一羽の見事なヤマドリがおちていた。「見い、あわれなものよ。ヤマドリは夫婦仲の良い鳥じゃ、オスがうたれて、悲しんでいるものがおろうに」「ほんに見事なヤマドリでございます」弥左衛門はかけよって鳥を抱き上げハラハラと涙をこぼした。「夫婦というものは、いつも一緒にいるものじゃ。秋野、弥助といつまでも仲よくせよ」大王は秋野にやさしく語りかけたが、それは大王自身の、はるか彼方にゆかせたものへの深い思いがあった。秋野はヤマドリを抱いて去った。それから幾日か又戦いが続き、何十人もの男たちが死んだ。だが、大王のこもる山の砦は、なかなかおちなかった。
ある日、秋野があわただしく家にとびこんで来た。「弥助さま、とうとう大王さまが」「大王が?」「討たれたのじゃ。しかもあの矢で、弥助さまのこさえた、あのヤマドリの・・・・」秋野はいいかけてたおれた。「アキノ、アキノ、しっかりしろ」「あの矢が、あの矢が」「アキノ、アキノどうした」弥助は気を失いかけた妻を抱き起した。だが翌日、弥助の留守に、羽根くずのおびただしく散らばる部屋の中で、秋野は咽を突いて死んだ。
あづみの里を、外敵から守るために、最後まで戦った男、八面大王が討たれた岩には、その後来る年毎にたくさんの鬼つつじの花が咲くようになったという。それから千年余り、春はめぐり、有明山に血染めの鬼つつじが咲いている。

*資料:「信州穂高」・・・池田久子 著 
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この話は、飛騨の両面宿儺、吉備の桃太郎伝説、奥州のアテルイ伝説など中央政府による原住民征伐の伝説である。
安曇氏は当初北九州の水軍を統治していて、中央により白村江の戦いの主戦力になったが、この戦いで朝鮮の新羅、中国の唐連合軍に敗れた。その将軍であった安曇乃比羅夫を祀り、この地を安曇氏の管轄とした。
八面大王伝説では坂上田村麻呂が征伐したことになっているが、実は安曇氏であったと思う。
有明山の麓には今も有明山神社があり、近くに八面大王の墓という横穴があり、この辺りを「みやしろ」と地元では呼んでいる。

そうしてこの地の地元神の穂高神と安曇乃比羅夫の霊を融合させた神社が穂高神社であると僕は推理する。

秋の旅 安曇野編 下に続く

穂高神社
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安曇比羅夫。船に乗っている。
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安曇氏の分布
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有明山神社
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有明山神社から15分ほど山の中にある
八面大王の墓とされる横穴。
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