夜風のささやき

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断片的な思い出 小2の作文集から

    昭和41年5月16日

  ぼくのおかあさん
                 
  てづかはじめ

ぼくのおかあさんはぼくががっこうからかえってくるとねてたり本をよんでいたりします。
そしてまどのかぎをしめておきます。きゅうしょくがない日はすぐ、ごはんをつくってくれます。そしておとうさんがかえってくるとカメラをもってかえってきます。それはニュースをうつすしごとだからです。あさはぼくをおこしてくれます。それから、せんたくをします。」せんたくがおわったらそうじをします。そのつぎはねます。
ときどきデパートでプラモデルをかってくれます、それは気げんがいいときです。おこるとすぐカーっとなるくせがあります。
毎月、おこずかいを二百円くれます。おつかいをするとほめてくれます。かわいがってくれることもあります。
ときどきへんなことをいうこともあります。わらってすぐおこることもあります。さむがりです。
ねるときはよるの二時です。
すがもに行くときはきものをきます。。デパートによることもあります。いちばんさきにみるのはきものです。それからぼくのようふくです。スカートを見ることもあります。

<先生のコメント>
おかあさんはいそがしいのでつかれているときもありますね。

<解説>
初めての原稿用紙三枚に渡る長編。
母はまだ、専業主婦の時代である。
僕にとって一番母と過ごした思い出のある頃である。これから後2年後には父とも折り合いが悪くなり別れてしまった。
一度、玄関に鍵を閉めないでいて洗濯をしていて泥棒に出くわしたことがあり、それから必ず在宅でも鍵をしめるようになった。
事実、夜更かしのし過ぎで良く帰ってくると昼寝をしていた。
確かこの作文を読んで「よけいなこと書かないでよ」と言っていた記憶がある。
カメラを持って帰ります、という記述は意味が通らないがつまり、父が重いカメラのバッグを持って帰ってくるので母が玄関先で受けとてあげていたということである。
すがもは「おばあちゃん銀座の巣鴨」であり、刺抜地蔵を信仰していた。つきに一度くらい連れて行かれた覚えがある。
 父と別れた母は占いの四柱推命や気学を勉強しやがて占術師になり、かなり稼いだようだ。超有名な広域暴力団や俳優、経営者などの顧問占術しをしていた。
今はやめてしまったが、健在である。

母と小平霊園で。撮影は父。
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