夜風のささやき

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小児病棟跡 「本当に怖い話」2

小児病棟跡

 

 今は東京郊外の住宅地となっている西武線のk市は昔から大きな病院が多いところで知られたところだ。結核療養所や隣のH市にはハンセン氏病のZ園(今は国の研究施設となっている)をはじめとする大病院が軒を連ねている。昔は結核療養所は相当の敷地があったようだが、今はいくつかの病院に分けられている。そのK市の病院街にある小児病院の敷地の奥に木造の廃屋の病棟があって、解体予算がないのかそのままになっている。

 

 ある時、ある友人が先輩からその病院の診療室のベッドに浮浪者のものと思われる死体が放置されたままになっているという話を聞いた。好奇心旺盛な彼は一人で夜中に病院の敷地に進入してその病棟を探した。廃屋となった病棟は新しい建物の奥の森の中にあった。ちょうど昔の学校の二階建ての木造校舎のようだった。病棟は二棟並んで建っていて渡り廊下で結ばれていた。入り口は開いたままになっていたので難なく中に進入できた。やがて長い廊下の右手に診療室らしき部屋を見つけた。

 

 彼はその部屋の入り口から懐中電灯で中を照らした。部屋の中は壊れた医療器具や薬品の瓶などが散乱していた。そして机や棚がひっくり返っていて大きな地震の直後のような状態になっていた。その中に診療台みたいなものが置かれていて布団がのっかっている。一瞬、緊張したがどうせ嘘だろうとたかをくくっていたのであきらめて帰ることにした。

 

 しかしどうせ来たのだから何か証拠を先輩に見せようと部屋の中に入った。何かもって帰ろうと物色していて先ほどの診療台に近づいた。なんか異臭がするなと光を再び診療台に当てたとき布団と見えたものの正体が理解できた。

 

 それは毛布にくるまったミイラ化した死体だったのだ。落ちくぼんだ眼窩は彼を睨んでいた。

 

 彼は足下も危ないの懐中電灯を放り出してに闇の中を飛んで逃げたという。二.三日は食べ物も喉に通らず、夢にうなされ続けた。そしてこの話は他に先輩以外にもらして無いということだった。彼の話を聞いた私たちは早速その夜中に病院探検を決行することにした。その喫茶店が終わる午前12時を待ってマスターとママと僕たち学生5人で車でk市に向かった。k市はこの喫茶店から車で10分とかからぬところにある。病院街は鬱蒼としていて街路灯があるとはいえ車でも一人で通るのは勇気がいる。目的の小児病院の門の外に車をつけた。病院は新しい建物で不気味さは全然無かった。だが廃屋になった病棟は門を入って左側を行き森を抜けるとあるはずだった。一行は息を殺して病院の敷地の中を進んだ。

 森の半ばまで来たときだ。僕たちの進む方向からちりーんと鈴の音が聞こえた。

 「おい今の聞いたよな」

 全員は黙ってうなずいた。しかしもうあとには引けない。持って来た懐中電灯をつけて再び進んだ。廃屋となった病棟は二棟並んで建っていた。話の通り昔あった木造の学校のような建物だ。建物の間には渡り廊下があり、雑草が占拠していた。懐中電灯で辺りを探ると昇降口は封印されておらず、真っ黒な口を開けていた。

 

 「ここから入ってみようか」

 K高校の生徒からもらった略図を頼りにその死体のある部屋の一番近い入り口から建物に入っていった。木造の床はぎしっぎしっと軋み、子供の上履きが散乱している。廊下の壁には子どもたちがクレヨンで描いた絵が朽ち果てんばかりになって揺れていた。「ここだ」 略図通りであればこの部屋の中にミイラ化した死体があるはずだ。一行に緊張が走った。「おれはここにいる」と尻尾を巻いた奴もいた。マスターは懐中電灯で部屋を照らした。中は話の通り器具やら瓶が散乱している。問題の診療台に光を当てるとみんな眼を覆った。

 「なんだ何にもないじゃないか」

 一通り部屋を見回したマスターは気が抜けたように言った。その途端、全員緊張が解けて恐怖感が無くなっていた。

 「きっとかつがれたんだよ」

 「いや発見されて処理されたんだよ」

 怖いもの見たさで来たものの、本当にあったらどうしようとみんな思っていたので正直ほっとしたのだった。しかし本当の恐怖はまだ息を潜めていた。

 

 証拠写真のためにポラロイドを撮っておこうと例の部屋とか廊下とかをカメラに収めた。そしてまた入り口に戻り建物の外観を撮っていた時だ。

 「何だろう。あの建物は」

 一人が指さす方を見ると病棟の脇の奥に確かに建物がある。来たときには気がつかなかったのだ。

 「行ってみよう」

 建物は不思議な格好をしていた。木造では無く煉瓦作りで入り口らしきところは妙な装飾がされていた。

 「これは焼き場だぜ」

 空を仰ぐと黒々とした煙突が延びていた。僕はあることを思い出した。西武池袋線のk駅とA 駅の間に鬱蒼とした森から長い煙突が延びているのが電車の窓から見える。子どもの頃から何か不気味な感じがしていたのだが噂によるとあれは結核療養所で亡くなった患者を焼く焼き場だと云うことだった。今は使われなくなったのだが、昔は菌を外に出さないと云う理由で病院内で処理されたのだ。その煙突が目の前にあるのだった。僕たち一行は再び悪寒に襲われた。

 

 その時、森の中でちりーんと鈴の音がまた鳴った。

 「もう帰ろう」

 だれも反対はしなかった。再び木造の病棟の前を通り車を目指した。

 「何だろうあの音は」

 だれかが言って、耳を澄ますと病棟の廃屋の中をぎゅっぎゅっぎゅっと床を軋ませて何者かが歩いてくる。みんな息をひそめた。音はだんだん手前に近づいてくる。ぎゅっぎゅっぎゅっ、ちりーん・・・足音ともに鈴の音がしたと思うとどしゃーんばりばり!!腐った扉でも思いきりけっ飛ばしたような音が轟いた。それを合図に僕たちはその場から走り出した。そして一目さんに車に逃げ帰ったのだ。

 「なんだったんだよあれは」

 「分からないけどだれかがやっぱりいたんじゃないか?」

 「早く帰ろう」

 しかしマスターとママがいなかった。二人をおいて帰るわけには行かないので車の中で待っていると間もなく二人が来た。 二人の話によると、心臓も飛び出んばかりの音を聞いてママは腰を抜かしたのだがマスターは冷静だった。せいぜい浮浪者がまたいるんだろうぐらいに思っていた。しかし音がした方向を窺っているとその辺りの窓がぼうっと明るくなり、しばらくすると破れた窓から火の玉が空に向かって出ていったと云うことだった。これを見た二人はお互い口も聞かず車に戻ってきたのだった。

 

 この病棟の廃屋と焼き場と思わしき建物は取り壊されきれいなこうえんになっている。

 

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写真はイメージです。

 

断片的な思い出 小2の作文から 7


昭和41年6月20日

  おとうさん
        てづかはじめ

うちのおとうさんはカメラマンで日よう日でも行くことがあります。
ドライブにつれてってくれることもあります。ちいさいころはかけ足がはやくてがきだいしょうでした。
一日ににさんかいかいしゃにいきます。あさはやく行って十二じころかえってくることもあります。だからやすみの日はあさからよるまでねています。
うちにはベッドがふたつあります。ねているとおみやげをかってきてくれます。たのめばなんでもかってくれます。おとしだまは300円くれます。ふざけるくせもあります。三ばいごはんをたべます。<先生のコメント>
おとうさんはいそがしいですね。

<解説>
父は放送局の報道カメラマンだったので生活が非常に不規則であった。重たいカメラをかついでどこにでも行った。事件があれば夜中だろうと関係ない。
何回か取材についていったことがあったが、締め切り時刻に間に合わないとフィルムをヘリコプターがとりにくることがある。
これみて「なんてカッコいいんだろう」と子供ごころに思った。
父はきわめて人当たりが良かったのだったので

この時期はまだ家族の仲が良かったときだが、この後からだんだん両親の雲行きがおかしくなって来た。母が東村山の久米川でバーをの経営を始めた。ちょうど菊水ビルが建つ前で今はぼくの従兄がミュージックハウスをやっている辺りだ。父は早く帰宅できた時には車で店が終わる時間を見計らって母を迎えに行っていたことを覚えている。僕は2人が戻ってくるのを寝床で待っていた。父の車は最初スバル360で排気音が特徴あったので聞き分けていたのである。父の話は過去の記事にもある。

出版社の宝島社に勤めていた友人が別冊宝島に載せてくれたエッセイだ。こちらは下手ながらも大人の文書だ。母と離婚して僕を引き取り男手一人で僕を育ててくれた元祖イクメンの話である。

親父とホンダN360の思い出http://yafuu.hatenablog.com/entry/2013/12/12/002522


とても85歳とは思えない親父。
今は榛名山麓で新しい母と犬とで暮らしている。
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断片的な思い出 小2の作文集から6 こうつうあんぜん


昭和41年6月7日

  こうつうあんぜん
      てづかはじめ

一 手をあげてとおる。

二 キャッチボールをしているところ

三 くるまが くるかどうかたしかめる。

四 おうだんほどうをわたるときはくるまがとまってくれるからゆっくりとおる。

五 けがをしないようにふざけてとおらない。

六 おうだんほどうをとおらないとくるまにひかれる。

<先生のコメント>
おぼえたことは、とこでもやれるとよいですね。

<解説>
これは作文というより、学校に警察から教育係がきて、交通安全のデモンストレーションを全校でおこなったときに憶えたことを書き出せというものだったと思う。同じようなことをなんども書いている。
マネキンを車がはねるのが印象的だったが子供心にもそれが車にはねられバラバラになりマネキンと言え僕はそうとうのショックを受けたようだ。悲惨なゆえ書かなかったか 

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断片的な思い出 小2の作文集から6 「本をよんで」

昭和41年6月7日

  本を読んで
            てづかはじめ

アリババと四十人のとうぞくをよみました。
アリババはふしぎなとびらをみつけました。その中には金やぎんがたくさんはいっていました。そしてはいってみたらだれかがしんでいました。「だれだろう」とアリババがいいました。とびらがしまりました。「ひらけまめ」といってもあきません。「ひらけむぎ」といってもあきません。そしてかんがえていました。そこがおもしろかった。
<先生のコメント>
くわしく読んでいましたね。おもしろいところがとてもよくかけています。

<解説>
なんとなく憶えている。映像が浮かんでくるということは映画なんかもみたのだろう。
原文では「読」という字を書くのを苦労したようだ。すごく大きな字になっている。感想文の初めてのものかな。
母が将来の僕のために今は無き河出書房の日本文学全集を毎月購入していたので、わりと小さい頃から書物は好きだった。でもこの頃はまだ小2、さすが文学全集はよもこなせなく、おまけに興味は怪獣やウルトラマンだった。
夏休みに無理やり読まされたのだが、多分映画を観てその印象ををすり替えて綴ったのだろう。

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断片的な思い出 小2の作文集から5

昭和41年5月30日

  えんそく
          てづかはじめ

ぼくはてんらん山でさとうくんと、こいでくんとまいごになっちゃいました。やっと先生をみつけました。
そしてなぐり川でおにぎりを四つたべました、
それからバナナをたべました。
おたまじゃくしをとりました。
そしてけんぶつしていると川へおっこちそうになりました。石につまづいたからです。
リックからキャラメルをだしてたべました。それからでんしゃで金めだるをみせてもらいました。
おばあさんがきたら大さわくんがせきをゆずってあげました。
かえってからすこしやすみました。

<先生のコメント>
たのしいえんそくのようすがよくかけています。
<解説>
飯能のほうに春の遠足に行ったときのこと。
初めて作文に友人が出てくる。思い出してみるとバナナは当時はまだ高級品であり遠足か病気にでもならないと食べられなかったようだ。
今更ながら、この作文は50年近く前である。高度成長期真っ只中。今と真逆に近い社会状況であった。この後にオイルショックがあり、やがて1980年代のバブルへと続く。とにかく凸凹はあるものの安定した時代であった。僕たち世代の親は昭和一桁生まれの戦争体験者であり、小さい頃からさんざ戦中戦後の悲惨な生活を聞かされた。そして僕たちは幸福になって行くと輝かしい未来を「鉄腕アトム 」や「 鉄人28号 」に託して信じてやまなかった。しかし、今や僕たちの親は生まれた時は苦労したが、戦争て生き残った人たちはほぼ幸せな老後を送っているように感じ、僕たちは行きは良い良い帰りはコワイとなったと感じるのは被害妄想の甘えとも言えるだろうか?

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